ろう児・難聴児教育について当事者の立場から伝えたいこと

聴覚口話法を用いるろう学校→地域の高校→福祉系大学→教育支援者(手話者)という経歴です。当事者の立場から思うことを整理します。注:聴力やろう文化の価値観の捉え方には個人差があります。あくまでもひとつの考え方として捉えて頂ければ幸いです。

難聴のお子さんと接するときに大切だと思うこと~当事者である私の経験から~

はじめまして。東京都に住んでいる21歳女子です。

 

大学では、福祉や特別支援教育を専攻しております。
また、生まれつきの高度難聴であり、聴の世界とろうの世界をさまよってきた当事者でもあります。

 

このブログでは、当事者の立場から「ろう児・難聴児に対する教育」について思うことを整理していきたいと思います。

 

※あくまでも私個人の経験や意見であり、すべてのろう者や難聴者が当てはまるわけではありません。聴力や育ってきた環境によって、属する文化や価値観は異なります。ご理解よろしくお願いいたします。

 

読者のなかには、生まれてきた我が子が「聴こえない」、あるいは、「聴こえにくい」という診断を受けてお悩みのお父様、お母様もいらっしゃると思います。

 

また、地域の学校にインテグレーションするかどうか迷っている方や我が子の将来が不安という方もいらっしゃると思います。

 

そんなご家族の皆さま、ご本人にとっても少しでもプラスになれば幸いです。

 

また、こちらのブログに対するコメントにも目を通し、可能な限り、読者のみなさまとも交流して参りたいと考えております。

 

お問い合わせ先

sato.ishi.0220@gmail.com(石川)

 

私が難聴だと分かったのはいつ頃?

まず、私が聴こえないと分かったのは、生後3ヶ月の時でした。

祖母が掃除機を使って掃除していた際、「普通の赤ちゃんであれば掃除機の音に反応するのに、この子は泣きもしないしピクリともしない。もしかして?」と思ったのがきっかけです。

 

そこから保健所や大学病院などで診察と検査の繰り返しで、両耳90dBの難聴という診断を受けました。

 

私が生まれたのが1999年なのですが、ちょうど「新生児スクリーニング検査」や人工内耳など難聴児に対する療育がはじまってきた頃でした。

 

しかし、新生児スクリーニング検査が一般的に適用される半年前に生まれたので、今のように生まれてすぐ検査するという時代ではありませんでした。

 

難聴が判明した後、両親は、難聴児に対する療育施設やろう学校に見学にいったり、講演会を聴講したりと精力的に学んでいったようです。

 

最終的には、「我が子に最高峰の教育を」と決断し、聴覚口話法のろう学校にお世話になることになります。

 

ろう学校時代

こういった経緯で、生後6ヶ月から15歳まで聴覚口話法のろう学校で育ちました。

 

人工内耳がまだ普及していない世代ではあったので、補聴器を使って、耳で聴いて話すという繰り返しで、周囲の方々と接していきました。

 

どちらかというと、人見知りな性格もあり、コミュニケーションは得意ではありませんでしたが、キリスト教による無償の愛の精神のもと、人と環境に恵まれた人間教育を受けてきました。

 

周囲に見守られながら育ってきたことは、私の土台を築いてくださったことにもつながりますし、感謝しています。

 

しかし、ろう学校は中学部までだったので、いつかは外の世界に足を踏み入れない時がやってきます。

 

ろう学校にいくか、地域の学校にいくか、その決断にたくさん悩みましたが、大学進学のことも考えて、地域の学校を選択します。そして、人生初の受験に臨みました。

 

高校時代

受験の話は、また別の機会に譲りますが、都立の普通高校に進学し、聴者の世界に足を踏み入れました。

 

どちらかというと、楽しかったという思い出よりも、苦しかった、辛かったという感情が蘇ってきます。

 

やはり、「聴覚障害があるから乗り越えられない壁」や「居場所のなさ」に何度も苦しみました。

 

その苦しみを勉強に向け、周囲との関わりをひたすら避け、大学受験のことしか考えないようになりました。

 

今思えば、もっと情報保障や聴覚障害について考え、行動できたのではないかと思いますが、そのときは毎日を何気なく過ごすことで精一杯でした。

大学時代

大学は、福祉系に絞り、高1のときから目指していた大学も受けましたが、夢は叶いませんでした。

 

しかし、かろうじて福祉系大学に入学でき、そこで人生が180度変わりました。

 

それまでは無縁だった手話やろう者の世界があることを知り、自ら行動しつつ、「自分は何がしたいのか」自問自答する日々でした。

 

高校時代にできなかったことを今やろうと、あらゆることに挑戦しました。ボランティアリーダーを努めて、40人もの人をまとめたり、友人と写真サークルを立ち上げたり、海外や国内を旅したり、飲食店でアルバイトしたり、、、

 

あるボランティアがきっかけで、手話を学んでいる聴者にたくさん出会い、関わっているうちに手話学習者に共通のニーズを見出し、手話サロンを運営するという貴重な経験もしました。

 

そうしているうちに、自身の経験をいかして働きたいという想いが芽生え、教職もとり、教育実習にもいきました。

 

最終的には、ろう児・難聴児の教育に人生を捧げ、手話の世界で生計を立てることを決意し、卒論もそれについて研究してきました。

 

まだまだ勉強不足であり、社会の厳しさも知りませんが、当事者としての強みをいかせるには?と日々再考しています。

難聴のお子さんと接するときに大切だと思うこと

ここまで私が育ってきた環境を整理してきました。

 

最近、Twitterでも議論が交わされているように、ろう教育はとても複雑で、一筋縄にはいかない世界でもあります。

 

難聴児として15年育ち、聴者の世界に3年足を踏み入れ、手話の世界で4年過ごしてきた当事者として、自分の軸を持ちたいと思いつつ、まだ整理しきれていない部分もあります。

 

しかし、私自身の経験からいえることは、次のことが大切だと思います。これは、聴覚口話法にもバイリンガル・バイカルチュラル教育法にもいえることです。そして、音声や手話を併用するコミュニケーション法にもいえることです。

 

親と子どもで共通のコミュニケーション手段をもち、信頼関係を築くこと

私が手話の世界にいるからなのか、「親御さん、手話覚えないの?」とよく聞かれます。しかし、私はその必要性を感じたことがないのです。

 

 

既に、両親と私の間で、21年培ってきた信頼関係があり、聴覚口話法によるコミュニケーション手段で生活できるからです。

 

両親以外の聴者と話すときは、筆談や手話を用いることが多く、聴覚口話法が完全なコミュニケーション手段とはいえないかもしれません。

 

それでも、多様なコミュニケーション法や言語が存在する以上、どのコミュニケーション法を用いても、親御さんとお子さんの信頼関係をゆるぎないものにするそのものが大切だと思います。

 

なので、乳幼児時代から我が子とたくさん話し、関わるという姿勢が大切だと思いますし、それがろう児・難聴児の将来の土台を築いていきます。

 

是非、時間の許す限り、聴覚口話法、あるいは、手話でお子さんとたくさんお話してください。

 

それでは、長くなりましたので、この辺で失礼します。

 

お読み頂き、ありがとうございました。